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icon牡羊座のフリートーク | 〔牡羊座の星座石〕Aries について(ページ1/1)

〔牡羊座の星座石〕Aries について

けい ♂ AB型 双子座
最終更新日:2013/06/23 22:21
投稿番号:T-80474
発信元:T-MSIE 8.0; Windows NT 6.0; Triden
皆様、こんにちは、けい、申します。

「牡羊座の星座石」についてお話をしたいと思います。

それでは、早速ですが、お話し致します。どうぞ、宜しくお願い致します。


〔牡羊座の星座石〕Aries について

・よく見える季節=冬 十二月下旬
・黄道十二星座の第一番座にあたる白羊宮(はくようきゅう)=三月二十一日〜四月二十日
・支配星=火星
・守護神=アーレス(ギ)・マルス(ロ)・マーズ(英)
・守護色=赤色
・星座石=火星を象徴するアーレスに捧げる石(火星の象徴石)を中心に、透明石が選ばれています。

【白羊宮の特徴】

元素4区分 火の宮
活動3区分 活動宮
性別    男性宮
季節    春の宮
南北    北の宮
シンボル  獣宮
その他 高貴宮、激烈宮、
     不妊宮



★牡羊座の守護星座石について・・・・・「★」は代表星座石です。

ルビー「★」
レッド・スピネル
ルベライト
ロードクロサイト(インカローズ
パイロープ・ガーネット
ロードライト・ガーネット

★牡羊座の守護星座石が意味するもの について

牡羊座の俊敏な判断と突進する激しいパワーを象徴します。牡羊座の強い正義感と弱者の救済パワーを象徴。牡羊座の細かい配慮の欠如を補い保護します。牡羊座の強い目的に貞節に行く手を守護します。


                                                  
【牡羊座伝説】

ギリシャの中部でボイオーティア地方を統治していたアタマス王はイノを後妻に迎えました。先妻の、雲のネペレーとの間にヘリクスとヘレーという二人の子がいましたが、イノに育てさせていました。ところが、イノは自分の子ができると、二人を継子いじめをするようになりました。こともあろうに、凶作の生け贄に二人をゼウスの祭壇に引き出すことを画策してしまいます。それを知った生みの母ネペレーはゼウスに二人を救ってくれるように懇願します。ゼウスはその願いを受け入れて、ヘルメスにいいつけて天駆ける金毛の羊をつかわして二人を助け出します。
羊にまたがった二人は北方にあるコルキスに向けて飛び立ったのですが、大変なスピードだったので、妹のヘレーは目眩をおこして海原に落下してしまいます。(以来この海峡をヘレスポントスと呼称)。命を助けられた兄のフリコスは無事にコルキスに送り届けられコルキス王の庇護のもと、やがて王女と結婚します。
ヘリクスは自分の命を助けてくれた金毛の羊をゼウスの祭壇に捧げ、その金色の皮をコルキスの王に献上。ゼウスは羊を天に上げ星にしました。



続いては、牡羊座の守護星でもございます、火星の象徴石について、お話ししますネ♪


〔火星の象徴石〕
火星=・情熱、突然の災難
    ・活動的、衝動的
    肉体的エネルギーの象徴

火星に捧げる色(赤)を基本とし、火星のパワー(勇気と行動力)を象徴する石が選ばれています。火星は牡羊座と蠍座を支配することから、火星の象徴石の多くは牡羊座・蠍座を象徴する星座石に組み込まれています。(〔★〕はその代表的なもの。「牡羊座の星座石」「蠍座の星座石」を参照してくださいね)


■ルビー〔コランダム〕「★」
ルビーは、その色から、血、火、炎などと結びつき、ギリシャ神話では炎と情熱の軍神アレースが宿る石とされて、闘争心がかりたて、行動力を高めるとされています。インドのヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』では、ルビーは英雄神クリシュナに捧げる石とされています。ルビーを捧げて礼拝する者は来世には力のある国王になれると記されておることからも、古代においてもルビーの高い価値観をうかがい知ることができます。また、永劫(カルパ)の木に熟した果実は、沢山のルビーで表されています。その赤は血(命)の象徴であり、永劫はルビーの硬さ(ダイアモンドに次ぐ)を象徴します。また、ビルマ(現・ミャンマー)ではルビーはドラゴンの卵から生まれ、「ルビーの中には永遠の焔がとじこめられていて、それをどんなももので包んでも中から光が通り抜けるし、水の中に投げ入れると水が煮え立つ」と、火と熱を象徴しています。
ルビーは熱と火の象徴であることから暑い七月の誕生石に選ばれています。そのために太陽に支配を受ける「獅子座」に加える関係者もいます。しかし、獅子座は古代から太陽神の象徴色として透明石が選ばれ、後にオレンジが加選されています。色彩のもつパワーは、赤(血、闘争心、激しさ、熱さなど)とオレンジ色(暖かさ、明るさ、陽気)とでは大きくその方向が違うことに配慮したと思われます。赤色とオレンジ色の違いは、そのまま火星神アレースと太陽神アポロンの性格の違いだからです。そのスピリチュアルな部分を解釈して読み解いていくところに占星術に基礎を置いた星座石の深い面白さがあると思えて仕方がありませんね。
[日本、=七月の誕生石、イギリス、アメリカ=三月の誕生石]・・・・・・宝石ことば「情熱、仁愛、威厳」


■レッド・スピネル(紅尖晶石)
透明紅色がルビーに似ていることから古くはルビー・スピネルと呼称。名称は尖った形の結晶であることから「尖った」を意味する spina に由来します。十八世紀までは、ルビーだと考えられていましたので、それ以前のルビーといわれるものにスピネルが混じっていた可能性も考えられます。世界で最も有名なルビーは、ヘンリー五世の所有した「黒太子(ブラック・プリンス)」で、現在イギリス王室の宝器とされています。実はこの宝器、スピネルでした。
「黒太子」は、本来、戦争ばかりして生涯を送ったといわれるエドワード三世のあだ名でした。彼は、一三六七にナエラの戦場でスペイン王に味方したお礼としてルビー(実はスピネル)をもらいましたが、まもなく病死したため、誰いうとなくこの宝石も「黒太子」と呼ばれるようになりました。その後、「黒太子」はヘンリー五世のものとなっていました。ヘンリー五世はアジンコートの戦いの時、ルビーには戦いの守護神(火星神アレース)が宿ると信じていたので、鎧に縫い付けて戦場に臨みました。その戦いで彼は馬から突き落とされて危うく命を落とすところでしたが、鎧が致命的な一撃を防ぎ、命拾いしたのでした。彼は大勝利を得てフランス領土の半分を手に入れ、王位継承権を確保。トロア条約を結んでフランス王家のカトリーヌ・ド・フランスをキャサリン・オブ・バロアとして迎え、ウェストミンスター寺院で王妃」として戴冠式を挙げます。ヘンリー五世の命を救い、愛と野望を叶えた「黒太子」は英国代々の王女の戴冠式の王冠を飾り、英王室の宝器として大切にされています。


■ルベライト〔トルマリン〕
「ピーシー」の呼称でもお馴染みです。トルマリン(電気石)の赤い色をしたものをルベライトといい、特に赤色の濃いものはルビーの代用石として珍重されています。この石の「情熱の点火」という象徴が火星と一致。また、トルマリンは電気を起こすので、色に関係なく古くから雷電神(木星)だったことから、現在でも木星の象徴石に加える場合もあります。


■ロードクロサイト(インカローズ)
マンガン鉱山でおもな産地がアンデス山脈であることから、「インカローズ」とも呼ばれています。その赤い輝きは、炎そのもので、この石の火星から受けるエネルギーはルビーより遥かに高いといわれています。勇気、やる気を起こさせ自信と富をもたらす石とされています。名称はギリシャ語の薔薇を意味する rhodon と色を意味する chrom に由来。愛を成就させるパワーもルビーに負けていないともいわれています。


■パイロープ・ガーネット、■ロードライト・ガーネット
◆ガーネット(柘榴石)
ガーネットは一種類の宝石ではなく、大きく分けて七種類で形成されたグループをいいます。(ガーネットについては、※宝石の種類と色彩を参照してください)。ガーネットの名はラテン語の「種子」を意味するツブツブが語源で、ザクロをイメージさせることから、和名「柘榴石」となりました。古くから団結を意味する石として、パプスブルグ家などで一族の繁栄を祈り大切にされてきました。また、魔よけとして十字軍の兵士たちが怪我から身を守るために身につけてお守りにしたといわれています。火星に共鳴するのは赤い色ですが、特にパイロープといわれるガーネットはルビーと同様に燃える火星の象徴そのものです。パイロープの語源もギリシャ語の「火」という意味の pyro からきています。戦から身を守る火のガーネットのパイロープが外に向って立ちはだかるのに比べて、同じガーネットでもアルマンディン・ガーネットは、内に向かって火星のパワーを発揮するといわれています。ロードライト・ガーネットはパイロープとアルマンディンの中間の成分からなり、色は赤から赤紫で、一般にはアルマンディンよりも明るい色調です。赤は血、血は鉄分、鉄は武器を意味することから錬金術師たちは戦の神アレース(火星神)と結び付けました。また火星は疫病の神でもあったことから、イタリアの医師カミロス・レオナルドゥスの著『宝石の鏡』(一五〇二年)にも効能について書かれています。「持ち主が有毒な、あるいは伝染病の大気にふれても冒されない」。また同じ時代の半ば(一五六一年)に書かれたといわれる『自然の魔術』(ジョヴァンニ・バチスタ・デッラ・ポルタ著)にも「首をさげていると、流行病と雷電をさけることができ、心臓を強くし富と名誉を得る」とあり、火星との関係を示唆しています。
[日本、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、イタリア=一月の誕生石]・・・・・・宝石ことば「貞節、真実、友愛」



 ガーネット(柘榴石)の宝石の種類と色彩について※

◆(A)アルマンディン・ガーネット(鉄ばん柘榴石) 暗赤、濃赤色
 
  (B)パイロープ・ガーンネット(苦ばん柘榴石) 血赤色
 
  (C)ロードライト・ガーネット 赤色、帯紫赤色、紫赤色

(D)スペサルタイト・ガーネット(満ばん柘榴石) 橙赤〜帯紫赤色、褐赤色

(E)グロッシュラーライト・ガーネット(灰ばん柘榴石)
             緑色透明(ツァボライト)
             帯褐色〜帯褐橙色、帯褐赤色透明(ヘソナイト)
             黄緑色(サロストサイト)
             ピンク色(ローゼライト
             赤味の強い透明(シナモン・ストーン)
             赤橙色(ジャシンス)

(F)アンドラダイト・ガーネット(灰鉄柘榴石)
                  緑色透明(デマントイド)
                   黒色透明(メラナイト)

(G)ウバロバイト・ガーネット クロム着色の緑色






皆様、これで、「牡羊座の星座石」と〔火星の象徴石〕 のお話は以上です。



これで、「十二星座」すべて、書き終えました。。。あくまでも「参考」までです。
ご了承下さいませ

ご興味がございましたら、ご覧くださいませ。参考までです。

















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AST.K ♂ B型 蠍座
日付:2013/06/20 20:31
投稿番号:80-3001
発信元:iPhone

あぁ、また久々にサイト開いた…(ー ー;)

さて、今回も読ませていただきました。

「リグ・ヴェーダ」は、インド西北部のパンジャーブ地方に侵入したアーリヤ人により生み出された聖典ですね。彼らはガンジス川へ移動し、のちにカースト制度という階級社会を築き上げます。
カーストとはポルトガル語で「血統」を意味します。^ ^

エドワード3世、エドワード黒太子、これは百年戦争ですか…

自分はアウグスティヌスとエドワード3世と同じ誕生日で、
11月13日です。


けい ♂ AB型 双子座
日付:2013/06/20 21:12
投稿番号:80-3002
発信元:MSIE 8.0; Windows NT 6.0; Triden

AST.Kさん、けいです。

こちらにも、コメント有り難うございます。

リグ・ヴェーダのこと、
さすが、良く、ご存知ですね・・・


では、わたくしも、失礼して・・・


リグ・ヴェーダについて・・・

『リグ・ヴェーダ』(??????)は古代インドの聖典である。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語(英語: Vedic Sanskrit)で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。


呼称

中国語では「梨倶吠陀」と表記され、日本語文献でも用いられた事がある.


歴史

古代以来長らく口承され、のち文字の発達と共に編纂・文書化された数多くあるヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。伝統的なヒンドゥー教の立場ではリシ(聖者・聖仙)たちによって感得されたものとされる。中央アジアの遊牧民であったインド・アーリア人がインドに侵入した紀元前18世紀ころにまで遡る歌詠を含む。

紀元前12世紀ころ、現在の形に編纂された。

内容

中核となっているのは2巻から7巻で、祭官家の家集的な性質を持つ。第1巻と第8巻は内容的に類似し、2巻〜7巻の前後に追加された部分と考えられる。9巻はこれらとは大きく異なり、神酒ソーマに関する讃歌が独占している。10巻は『リグ・ヴェーダ』の中で最も新しい部分とされる。 讃歌の対象となった神格の数は非常に多く[2]、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。しかし、他方でリグ・ヴェーダの終末期には宇宙創造に関する讃歌を持つにいたり、ウパニシャッド哲学の萌芽ともいうべき帰一思想が断片的に散在している[3]。

後期ヴェーダ時代(紀元前1000年頃より紀元前600年頃まで)に続くヴェーダとして『サーマ・ヴェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』の三つが編纂される。付属文典として『ブラーフマナ』(『祭儀書』)、『アーラニヤカ』(『森林書』)、『ウパニシャッド』(『奥儀書』)が著された。


脚注

1.^ 中谷英明 (2000)「古代インドにおける哲学と文献学」『古典学の再構築』第5号. 18-21 (オンライン・ペーパー)
2.^ 例えば、スーリヤ(太陽神)、ヴィシュヌ、ヴァーユ(風神)、ルドラ(後のシヴァ神)、アグニ(火神)、ソーマ(神酒)、ヴァルナ(司法神・水天)、ミトラ(契約の神)、インドラ、ヤマ(死者の王)、アスラ。
3.^ 辻直四郎(1996)『リグ・ヴェーダ讃歌』第29刷 299頁。
日本語訳 [編集]辻直四郎訳注『リグ・ヴェーダ讃歌』 岩波文庫、初版1970年

脚注

1.^ 中谷英明 (2000)「古代インドにおける哲学と文献学」『古典学の再構築』第5号. 18-21 (オンライン・ペーパー)
2.^ 例えば、スーリヤ(太陽神)、ヴィシュヌ、ヴァーユ(風神)、ルドラ(後のシヴァ神)、アグニ(火神)、ソーマ(神酒)、ヴァルナ(司法神・水天)、ミトラ(契約の神)、インドラ、ヤマ(死者の王)、アスラ。
3.^ 辻直四郎(1996)『リグ・ヴェーダ讃歌』第29刷 299頁。

関連項目

ヴェーダ語
十王戦争
ヴリトラ - リグ・ヴェーダに登場する巨大な竜
ヤマ - 人間で最初の死者
マハーバーラタ
クルクシェートラの戦い(英語版)


ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』 については、ウィキペディアでご覧いただけます。


AST.Kさん、ちなみにわたしの誕生日と同じ著名人は・・・


女優で、韓国での女優名は、「ユミン」の笛木優子、
歌手の松本伊代、
哲学者、ジャン・ポール・サルトル
俳優の長谷川初範(ウルトラマン80(エイティ))
渡る世間に出ていた女優、長山藍子

などです。

AST.Kさん、失礼致しました。

けい(^^;;)

けい ♂ AB型 双子座
日付:2013/06/20 22:13
投稿番号:80-3003
発信元:MSIE 8.0; Windows NT 6.0; Triden

AST.Kさん、けいです。

百年戦争のことはもうご存知なので、こちらでは省きます・・

が、実は、百年戦争は、ワインに歴史にも関わっているのは、ご存知でしょうか??

AST.Kさん。参考までに、書いておきますね・・・



百年戦争―。

14・15世紀の西欧世界を襲った災害は、ペストと戦争である。1347年末、中東からイタリア商船が持込んだペストはマルセイユに最初上陸した。当時、度重なる飢饉にって住民の栄養状態は悪く、抵抗力を弱めていたため、ペストはヨーロッパ社会にたちまち蔓延する。ペストは周期的に流行を繰返し、フランスでは1世紀半の間に、住民の30〜50%の命を奪った。
しかし、局地的に最大の災害をもたらすのは常に戦争でありる。なかでも最大の被害を及ぼしたのは、フランスを舞台にした王位継承の争い、「百年戦争」であった。戦争は百年間休みなく続いたわけではなく間款的であったが、2つの局面に分けられる。

カペー朝はフィリップ4世の死後、3人の息子が次々に若死したため、深刻な王位の継承問題が起きた。従兄弟のヴァロワ家が王位を継いで、新王フィリップ6世(在位1328−50)として即位する。しかし、先王フィリップ4世の娘を母とする英国王エドワード3世(在倍1327−77)が、フランス王の継承権を主張して、積年の英仏王家の対立が再燃したことがことの始まりである。

1339年、エドワード3世が、軍をひきいて北フランスに侵入した。 フランス側は緒戦でこそ大敗したが、その後30数年戦い続け、1375年には、カレー、ボルドー、パイヨンヌを除いて失地をほぼ回復する。これが第1局面である。
第2局面は、平穏な約30年の後、フランス側の内部分裂から始まる。ヴァロワ朝のシャルル6世(在付1380−1422)の脳神経疾患が昂じたので、その弟のオルレアン公ルイと従兄のブルゴーニュ公ジャンによるフランス王家の中での権力争いが始まった。

1407年、ブルゴーニュ公がオルレアン公ルイを暗殺した。
これをきっかけに、「ブルゴーニュ派」と「オルレアン・アルマニヤック派」の内乱となる。ブルゴーニュ派は東部・北部の、オルレアン・アルマニヤック派は西部・南部の領主を基盤とした。 一方、英国では、1399年に、ランカスター朝が成立していたが、ヘンリ5世(在位1413−22)が、フランスのこの内乱に乗じて、1415年にノルマンディに侵入し、アザンクールの戦いで大勝する。

フランスでは、オルレアン・アルマニヤック派が皇太子シャルル(後のシャルル7世)を担ぐのに対し、ブルゴーニュ派はシャルル6世を担ぎ激しく争っていたが、1420年、ブルゴーニュ派のシャルル6世は、再度侵入した英国王ヘンリ5世と「トロワ条約」を結ぶことになる。その内容は、ヘンリ5世がシャルル6世の娘カトリーヌと結婚し、シャルル6世の死後はフランス王位を継ぐことを定めたものであった。


2年後の1422年、英仏両王がたまたま相ついで死亡。条約に基づいて、ヘンリ5世の子ヘンリ6世(在位1422−61)が、生後10ヶ月ではあったが、英仏両国の王となり、叔父のベッドフォード公が摂政として、ロワール川以北の北フランスを支配し、親英の立場のブルゴーニュ公が東部を支配する。
一方、皇太子シャルルの方は、シャルル7世(在位1422−61)と称し、プールジユに退いてロワール川以南を支配する。が、母イザボーが皇太子は不義の子でヴァロワの血を引いていないと証言したため混乱し、士気は上がらなかった。
1428年、ベッドフォード公はこの曖昧な状況を打開するため、オルレアン・アルマニヤツク派の要地オルレアンを攻囲した。

ジャンヌ・ダルク(1412頃−31)が登場するのは、この時である。 ジャンヌはロレーヌのドンレミ村の裕福な農民の娘で、1429年、オルレアン攻囲を知ると意を決して王太子に会い、ロワール河畔のシノン城で、戦士の列に加えられることに成功。天使の旗印を掲げて入城した彼女を迎えたオルレアンは士気が上がり、10日後にオルレアンは「奇跡的」に解放された。
次いで、彼女はランス進撃を強行し、7月、ランス大聖堂でシャルル7世の「聖別式」を実現させた。これによって疑惑を引きずっていたシャルルの地位は強まり情勢は有利に働いた。しかし、翌年5月、ジャンヌはパリ近郊の戦闘中、親英派のブルゴーニュ軍の捕虜になってしまった。身代金と引換えに英国軍に売渡され、悪意と計略に満ちた異端裁判の未、ジャンヌはルーアンの広場で焚刑に処せられてしまう。

この後の1435年、ブルゴーニュ公国は英国と同盟を結んでいたが、フランドルの支配権をめぐって両者の間にひびが入り、オルレアン・アルマニヤック派とアラスで和解する。
この和解以降、統一したフランス軍は、英国軍を次第に駆逐していき、1453年、英国の手には、大陸側の領土としてはカレーだけを残し、百年戦争は事実上終了する。

ボルドーを中心とするギュイエンヌ地方の人々は、英国と経済的、政治的、社会的に関係深い親英派だっから、フランス北部と違って最後まで抵抗した。1451年春にフランス軍の本格的攻撃が行なわれ、いったんは制圧される。しかし、ボルドーは英国としても重要な拠点だったから、トールポット将軍の軍隊をボルドーに出兵、反撃を試みる。が、結局1452年の戦いで敗北する。この最後の戦いの地が、サン・テミリオンの東で、今でもその名を残すカスティヨン・ラ・バタイユ(戦場の意味)である。

百年戦争の終了後、仏領になったボルドーは、ジョン失地王に認められた諸特権を一旦は失うが、利にさといシャルル7世 は、ボルドーの振興とその貿易がもたらす利益を考えて、この旧特典を回復させたので、息を吹き返す。しかし、ワイン貿易の額は、百年戦争の始まる前の8分の1に減少。戦禍によることに加えて、ボルドーに代わって、様々な国から多くの魅力的なワインが英国及び北欧へ運ばれるようになったからだ。

「百年戦争」は、中世の封建社会を構成する農民、領主、教会、都市の権力を大きく変化させた。
戦禍と人口減少によって農村は荒廃し耕作面積は減少した。それを理由に、農民は、貢租や賦役の減少を要求したり、領主の緊縛から逃れて農奴の地位を脱したりして、総体的には農民自身地位は向上させる方向へ向かった。
しかし、最大の打撃を受けたのは領主層である。人口減少と農村の荒廃のため基本的収入源である封建的貢租の基礎を崩されたばかりでなく、領主の戦死による家系の断絶や捕虜の身代金の出費で没落する者が少なくなかった。
次第に、領主層は宮廷に取り入り、国王から役職や年金をもらう方向を取り始める。

ルイ11世(在位1461−83)の死亡時には、約750人もの宮廷人を生んだ。弱体化した各地の領主の土地防衛は王の常備軍が代行した。これが王の地位と権威を高め、次の世紀の絶対王政確立への途を開いて行くことになるのである。


百年戦争の背景について

百年戦争の背景(ひゃくねんせんそうのはいけい)には様々な要因が挙げられるが、イングランド王とフランス王との歴史的な対立を軸に、王権強化による国家の統一を目的とした利害の対立が、最終的にフランス王位継承問題により火がついたものである。


抗争

百年戦争の遠因は、1066年のノルマン征服によりフランス諸侯であるノルマンディ公がイングランド王を兼ねたことにまで遡れるが、1154年にアンジュー伯アンリが母方からノルマンディー公兼イングランド王位を相続してプランタジネット朝を開き(イングランド王としてはヘンリー2世)、結婚によってアキテーヌ公国をも手に入れたことで、イングランドとフランスの半分を占めるアンジュー帝国を作り上げたことが直接の原因である。

これによって、プランタジネット家はフランス王の臣下でありながら、フランス王より遥かに広大な所領を持ち、さらに隣国の王位を兼ねるという事態となり、元々イル・ド・フランスの王領地以外での権力基盤が弱かったフランスのカペー朝は危機に立たされた。この強大な勢力に対抗し、倒すことがカペー朝の歴代フランス王にとっての課題となったのである。


1203年にフランス王フィリップ2世は、プランタジネット家の内部対立を利用してジョン王からアキテーヌを除くフランス領土を接収することに成功した。さらにブービーヌの戦いの勝利により、これらの領土を確定した後、1215年に王太子ルイ(ルイ8世)は、イングランド諸侯の支持を受けて一時ロンドンを占領し戴冠を目前とした(第1次バロン戦争)。しかし、1216年にジョン王が急死し幼いヘンリー3世が即位すると、イングランド諸侯はヘンリー3世を支持したため失敗に終わった。ルイ8世はその後もイングランド征服を狙っていたが1226年に死去し、幼いルイ9世が即位した。これを好機として、既に成人していたヘンリー3世が二度にわたって、フランス領土奪回のための侵攻を行ったが共に失敗し、却って残っていたアキテーヌも占領された。しかし、ヨーロッパの平和を望むルイ9世は、イングランドとの抗争の終結を望み、1243年に平和条約を結び、ヘンリー3世が臣従の礼をとることでボルドーを中心としたアキテーヌの一部であるギエンヌとガスコーニュを返却した。


ボルドーワインとブルゴーニュワイン について

ボルドーワインの歴史

紀元前に古代ローマがガリア(現在のフランス領土)を侵略し帝国の属州としていった時、ボルドーはフランス南西部の港湾都市および軍事基地として大いに栄えました。ボルドーという名はオーボール・ド・ロー(au bord de l'eau:水のほとり)という古語からきているそうですが、大きな河沿いの荷の集積に便利な場所で大西洋という海に面していたことがボルドーの経済的発展の礎となり、ローマ軍の糧食調達のためワインの原料となるブドウ栽培が奨励されたのです。また中世ヨーロッパ各地の巡礼を集め続けたスペインの、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼道のひとつがボルドーを通ったため、巡礼の宿場町として旅人にワインを提供して栄えたのがサンテ・ミリオン地方でした。さらにボルドーワインの運命を左右する出来事が12世紀に起こります。それはボルドーを含むアキテーヌ地方の領主だったエレノール・ダキテーヌが英国プランタジネット朝の初祖ヘンリー二世と結婚したことで、その結果アキテーヌ地方が英国領になってしまったことです。ボルドーは英国向けワイン貿易で以前にも増して繁栄し、英国へのボルドーワイン船団を海賊から守るための警備船団が、後の大英帝国海軍に発展しました。ボルドーワイン輸送用の樽(tonneau トノー)がなまって、今日の船舶積載量基準語の屯(トン)になったとか、ボルドーワインは昔は色も薄くフランス語でclairet(クラーレ 澄んだ)と呼ばれていたことから、英語でボルドー赤ワインをclaret(クラレット)と言うようになったなどという面白いエピソードもあります。もともとクラーレだったボルドーワインも、海を越えて遠くへ運ぶという保存上の必要のために、この地方で栽培に適していたカベルネ・ソービニオン種を使った、タンニンをたっぷり含んだ貯蔵に耐えるヘビーなタイプになっていったようです。英仏百年戦争(1338〜1453)の結果アキテーヌを初めフランス国土から英国軍はすべて追い払われるのですが、それまで300年の間、ボルドーワインは主として英国人に好まれていたのです。もともと英仏百年戦争が起きたのはボルドーのワインを飲めなくなったフランスの王様が口惜しがって取り返そうとしたからだ、というジョークがある位です

ブルゴーニュワインの歴史

ゲルマン民族移動時バルト海地方からやって来たブルグンド族が現在のリヨン周辺に住みつき、ブルグンド王国を建設(443)しました。ブルゴーニュの名前はここに由来しています。その後クロビスが建てたフランク王国に併合(534)されますが、フランク王国の分裂(843)時に西フランク(後のフランス)と東フランク(後のドイツ)に挟まれた中フランクに位置していたブルゴーニュは、イタリア北部も含めたロタール王国となります。ルネサンス最盛期にはブルゴーニュ王国として栄えますが、英仏百年戦争(1338〜1453)後にバロア朝のルイ11世によってフランスに併合(1477)されるという、複雑な栄枯盛衰の歴史を持っています。このヨーロッパ中央部に位置していたブルゴーニュ王国は、ワインの歴史の上で三つの大きな特色を持っていました。第一はこの地方がローヌ河を利用した中世ヨーロッパの重要な交易路になっていたことです。古くはローマからのワイン運搬に使われたこの水路は、この地方を経済的に富ませワイン産業を発展させました。第二はこの地方で修道院が発達したことです。ローマカトリックの堕落に反発したベネディクト派僧侶がブルゴーニュ中南部のクリュニーに修道院を建て、最盛期には直属修道院600以上、修道僧10,000人以上もかかえる勢力を誇りました。このベネディクト派の分派であるシトー派は現在のボーヌで発祥し、修道院でワインを積極的に育て品質向上に寄与した点で特筆すべきものがあります。この地方の最上のブドウ畑は殆ど修道院の持ち物で、フランス革命により没収され競売にかけられたため、今日のブルゴーニュブドウ園が複雑に細かく分かれてしまうという運命になったのです。第三にブルゴーニュ王国とフランドル地方(現在のベルギー)との結びつきです。1361年にブルゴーニュのフィリップ剛勇公がフランドル伯相続人マルグリットと結婚したため、フランドル地方がブルゴーニュ王国の一部となりました。そのため織物をはじめ当時殷賑を極めたフランドルの物産品が入るようになり、ロワール河一帯に押し込められていたフランス宮廷の影を薄くするような、華美な文化がブルゴーニュのディジョンで花開いたのです。


「百年戦争」・
「百年戦争の背景」・
「ボルドーワインとブルゴーニュワイン 」
についてはそれぞれこの上記の項目で検索・参照いただけます。


AST.Kさん、こちらは、あくまでも、「参考」までです。

失礼致しました。



AST.K ♂ B型 蠍座
日付:2013/06/23 21:37
投稿番号:80-3020
発信元:iPhone

ご説明ありがとうございました。
自分はフランドル地方の綿織物が背景だとばかり…(ー ー;)

ところで、フランスのヴァロワ朝は、百年戦争で一時イギリスに追い込まれてしまいますが、それはブルゴーニュ公という、フランスの大諸侯がイギリスと結んだからだそうです。
王様もまた、みごと煮え湯をのまされましたね。

ジャンヌダルクは悲劇の少女ですね………T_T
彼女もまたブルゴーニュ派に捕らわれ、イギリスに引き渡されたのですから…。ジャンヌダルクは悲しい人…それに加え、ブルゴーニュ公は憎いヒト(怒)

追記:ワインといったら、

イエス・キリストの血(^^)
けい ♂ AB型 双子座
日付:2013/06/23 22:21
投稿番号:80-3025
発信元:MSIE 8.0; Windows NT 6.0; Triden

AST.Kさん、けいです。

お返事、有り難うございます。
いいえ、どういたしまして・・・こちらこそ。(^^;;

さすが、何でもよく、ご存知ですね。勉強させていただきました。

では私も・・・・。
「フランドル地方の綿織物」のことについて、調べてみました。参考までです。

リーズ

リーズ (Leeds) はイングランドの都市。ウェスト・ヨークシャー地方に位置する。人口は約71万5千人(中心部の人口は約43万人)。ロンドンから鉄道利用で2時間半の場所に位置している。

リーズはイングランド内で3〜4番目に大きな都市と言われているが、町の中心から30分も車で走れば、牧草地に羊が群れて草を食んでいるヨークシャーの田舎の景色を十分に堪能できる。ヨークシャー・デール(国立公園)はイギリスの中でも主要なトレッキング・スポットとしても有名である。


歴史

中世中期においては農業が中心であったが、百年戦争が行われた14世紀ころよりフランドルから毛織物の技術が持ち込まれた。テューダー朝の時代には、羊毛、毛織物の生産で栄えたほか、交通路の結節点として流通拠点としての役割も果たした。

ヨークシャーの紋章として、白いバラが使われているが、これはヨーク家の紋章に由来するものであり、リーズ市内のいたるところで見る事が出来る。かつてこの白薔薇を家紋とする、ヨーク家と、赤薔薇のランカスター家が争った際には、この両家の家紋から「薔薇戦争」と名付けられた。ヨークシャーは白薔薇であるが、マンチェスターを中心とするランカシャー地方の紋章は赤薔薇で、今でも仲が良くないのはこうした歴史的背景によるものである。実際、サッカークラブのリーズ・ユナイテッドとマンチェスター・ユナイテッドの試合は「ローズ・ダービー」と呼ばれるほどで、ペニン山で分けられたリーズ対マンチェスターは、イングランド内でも対抗意識の強い2都市である。

産業革命の進展にともなって交通網の整備はさらに進み、1816年にはリーズ・リヴァプール運河、1848年には鉄道が開通した。

近年リーズは「北の首都」とも最近は呼ばれ、金融経済の中核をなす都市として目覚しい発展を遂げている。19世紀来の羊毛産業が不振になると産業転換を図り、現在はIT、金融等の経済都市として成長を遂げている。経済紙の調査によると、リーズはヨーロッパの都市で最も成長率の高い都市として認められ、観光面でもヨーロッパで注目度の高い都市として賞を受賞した。


フランドル地方の綿織物のことについては、ウィキペディアで「リーズ」・「産業革命」で参照いただけます。


そうですね。。。ジャンヌダルクは、ちょっと、かわいそうでしたね・・・
参考までに、ジャンヌダルクについて、書いてみますね。。。

1. オルレアンの戦い

ロレーヌの生村ドンレミ(現在ボージュ県ドンレミ・ラ・ピュセル村)を出て、1429年2月初め、王太子シャルルが本陣を置くシノン城市に姿を現すまでのジャンヌの動静には、不明な点が多い。近在の城市ボークールールの守備隊長ロベールは、パリの王政府からシャンパーニュのショーモン代官職を預かる叔父の代理を務め、ドンレミ村の裁判領主である。ジャンヌの父ジャコは、村の代訴人としてロベールの法廷に出たこともある村の有力者である。娘のジャンヌは、ロベールを頼った。ロベールは、形式上はあくまで王太子シャルルと敵対しているパリの王政府(イギリスとフランスの王を称する幼王ヘンリー6世の摂政ベドフォードの政府)の役人でありながら、シャルルに味方している。ロベールがジャンヌにつけてやった数人の護衛のうちには、王太子の厩舎(きゅうしゃ)掛の職名をもつものもいた。いずれにせよ、王太子が事前にジャンヌに関する情報を入手していたことは確かである。

戦局の焦点は、1429年のロアール川中流のオルレアン市攻防にあった。ここを落とせば、イギリス軍はノルマンディーとギュイエンヌという二つの占領地域をつなぐことができる。王太子としては、ここで敗北すればロアール川流域からさらに南に撤退しなければならない。そういう存亡の危機に立たされた王太子のもとに、王太子を救えという神の命令を受けたと称する女が現れた。王太子は、この女ジャンヌの志の誠実さを認め、オルレアンの守備隊に参加させた。信仰の熱情にあふれ、慣行にとらわれない戦闘指揮をみせるジャンヌは、兵士たちの心をとらえた。ジャンヌの率いる槍(やり)小隊は、日が暮れても戦闘をやめず、ついにイギリス軍が築いた砦(とりで)の一つを落とした。これが戦況を大きく変えた。同年5月上旬、イギリス軍はオルレアンから撤退した。オルレアンの戦いののち、ジャンヌはランスでのシャルル(7世)の戴冠(たいかん)式に列席し、北フランス諸都市を歴訪する「王の巡行」に、バロア王家の「神の証人」として、華麗な衣装を身にまとって同行した。ジャンヌの生涯の、これが華であった。

2. 異端にして聖女

翌1430年5月、ジャンヌは北フランスのコンピエーニュ郊外で、ブルゴーニュ方の軍勢に捕らえられた。身代金(みのしろきん)はイギリス王が支払い、ジャンヌはノルマンディーのルーアン城に留置された。シャルルは沈黙を守っていた。パリ大学神学部は、ジャンヌに異端の嫌疑をかけ、フランス王国宗教裁判官による宗教裁判を要求し、イギリス王家側もこれに同意し、法廷に身柄を引き渡した。裁判は、31年2月21日を初日として14回の審理を重ねた。教会の聖職者の仲介を経ず、直接神的存在に接触したと主張すること、異端嫌疑の根拠はここにあった。「地上の教会」の組織原理が、一少女の純な信仰によって試されている。宗教裁判官の審問は、ジャンヌの主張が、日ごろ目にする神的存在の画像に触発された心理的錯覚に出ることを論証することに的を絞っている。もし、これを少女が認めれば、少女の罪は聖像崇敬という信仰の迷いにほかならず、異端の嫌疑は消える。法廷は、ジャンヌの魂と肉体を救おうと試みたのである。少女の単純で純粋な信心がこれを拒んだ。同年5月28日朝、ジャンヌはルーアンの広場で異端を宣告されてイギリス王家のルーアン代官にその身柄をゆだねられ、代官は慣行どおり、異端女を火刑に処した。このルーアンの審決を、ローマ教皇庁はいまだ取り消していない。それでいて、1920年、教皇庁はジャンヌを聖女に列した。かくして、いま、ジャンヌ・ダルクは異端にして聖女である。

こちらは、ジャンヌ・ダルクで参照いただけます。


フランスのヴァロワ朝について

歴史

成立と百年戦争

カペー朝第10代国王フィリップ3世の子シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられ、ヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、シャルルの子フィリップ6世が諸侯の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。

ところが、当時のイングランド王エドワード3世もフランス王家の血を引く人物であったことから、エドワード3世はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が勃発した。

名将エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子シャルル5世(賢明王)は優秀な人物で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒が原因で44歳の若さで他界すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、イングランド国王は、フランス国王にまで推戴され、遂には王国存続の危機にまで立たされた。

そのような中でシャルル7世の時代に現れたジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、1453年、遂に百年戦争はフランス軍の勝利で幕を閉じた。


こちらは、「フランスのヴァロワ朝」で参照いただけます。


イエス・キリストの血

【STEP115】祭礼とワイン

のちにフランス王となるアンリ4世(1553 - 1610)は、誕生直後の1553年12月に幼児洗礼を受けています。このとき彼の唇を濡らしたのは、ジュランソンの白ワインでした。

聖餐(聖体拝領)

西暦476年のローマ帝国滅亡以降も西ヨーロッパで葡萄栽培とワイン醸造が存続できたのは、キリスト教徒が聖餐用のワインを必要としたからであると考えられています。また、 葡萄栽培とワイン醸造が世界中に広がった最大の理由も、ワインがキリスト教の布教にとって必須のものであったからだと思います。日本語で「聖餐」と書くと、「晩餐」とか「食事」と誤解するひとが多いのですが、これは食事ではなく、ミサ(聖体祭儀)の途中で行われる儀式のことで、誤解を恐れずに簡素化していうと、「赤ワインに浸したパンを食べること」です。

古代ユダヤ教には生贄(いけにえ)の風習があったようで、ユダヤ教およびキリスト教の聖典である旧約聖書には、罪を贖(あがな)うために子羊などの生贄を捧げる習慣についての記述が散見されます。たとえば『レビ記』には、「生贄を捧げ、穢れのない子羊の血を振りまく」とあります。キリスト教において、この「子羊の血」の代わりとなったのがイエス・キリストの血、すなわち赤ワインでした。

最後の晩餐の席で、イエス・キリストはパンを取り、「これがわたしのからだである」といい、杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えたとされています。キリストは「神の子羊」とも呼ばれるように、人間の罪に対する贖いとして、キリストが未来永劫に生贄の役割を果たすと考えられており、キリスト教徒たちは、穢れのない神の子羊であるイエスの血によって、すべての人間が免罪され得ると考えています。

カトリック教会では、聖体の秘跡、すなわちパン(※1) とワインがイエスの体と血に変わること(聖体変化)と、それを信徒が分け合うこと(聖体拝領)が、ミサ(聖体祭儀)の中心になっています。聖体拝領とは、キリストの血と肉であるところのワインとパンを身体の中に受け入れ、キリストと同化することです。畢竟(ひっきょう)、聖餐とは、ワインに浸したパンがイエス・キリストの体と血に変化し、それを信徒が口にすることによって、その人間の罪が贖われる、という儀式です。

中世において、聖体の秘跡に用いられるワインは、その色や透明度が非常に重要とされ、赤ワインは卵白を使って澄ませたり、時には動物の血を使うこともあったようです。当時のカトリック教徒たちは現在と異なり、パンとワインという二種類の聖体を別々に口にしたようで、司祭と同じように、聖杯からワインを飲んでいました。中世初期においては、成人したカトリック教徒は年に3回聖体を拝領し、毎週日曜日のミサの後には聖別(聖化)されていないワインが振る舞われていました(※2) 。このことからも、当時の教会がいかに多くのワインを必要としたかが理解できます。

幼児洗礼

洗礼とは、キリスト教の入信に際して、全身や頭部を水に浸す儀式のことで、聖餐(聖体拝領)とともに、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)のひとつです。洗礼を通してキリストの贖罪の功績にあずかることにより、人間の始祖であるアダムとイヴがエデンの園において最初に犯したとされる原罪と、洗礼を受ける者がそれまでに犯したすべての自罪が赦される、とされています。幼児洗礼とは、幼児や小児に対して行う洗礼のことで、日本の教会でも時々見かけることがあります。私は友人であるフランス人夫妻の第一子が誕生した時に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で立ち会ったことがあるのですが、非常に厳かな雰囲気で、無宗教である私自身も敬虔な気持ちになりました。友人の生まれたばかりの長女は、真っ白で長いワンピースのような洗礼服を着せられ、両親の手に抱えられながら、神父の手によって頭に聖水が注がれました。その後、我々は別室に移ってシャンパーニュを抜栓し、立会人である私がグラスから指に一滴取って、長女の唇を濡らしました。幼児の唇をワインで濡らす行為は、日本では公的には行われていないようですが、フランスのワイン産地では広く残っている風習のようです。生まれたばかりの幼児に、ごく微量ではあってもアルコールを含ませるというのは、親のエゴのようにも感じたのですが、日本のお屠蘇よりははるかに厳粛な雰囲気でした。

「良王アンリ」としてフランス人に人気のあるアンリ4世は、1598年にナントの勅令を発布してカトリックとプロテスタントの融和に努め、善政を行ったひとでした。ジュランソンの生産者たちは、アンリ4世の業績はひとえに、幼児洗礼に用いた一滴のジュランソンの白ワインのおかげだとしています。

※1 ギリシャ正教では普通の白いパンが用いられるが、カトリック教会では酵母による発酵が行われていない、薄い煎餅のようなホスチアが用いられる。
※2 Seward, D., "Monks and Wine" (1979, London)

こちらは、参考までです。



わたしは、ラクリマ・クリスティ −キリストの涙− というワインなら存知ております。


失礼致しました。


けい(^^:;;












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